こんにちは。気づけば5月。中の人です。
さて、今回は前回、前々回とやった哲学の総決算編。
印象に残った補足
大事なのは「答えの無い問い」に答えを出さずに問い続けることではない
この問いは答えがない。そう片付けてしまうことで「安全な殻」に閉じこもってしまい、思考が停止してしまう。
答えはないという中でも自分なりの自説を固めている人とは比べようがない。
答えがないという答えに囚われてしまう為そこからまた考えていくのも難しくなる。
「適切な問い」を立てていこう
問いを立てることは大切。けれどもナンセンスな問いを立ててしまうと我々は迷宮に迷い込んでしまう。「どんな回答が与えられれば答えられたことになる」というのをある程度は自分の中で予め持っておくことも大切だと感じた。
利己主義と利他主義 中の人的説
結論。「どちらも正しい。でもこれらは後付けでしかない。」
どちらも正しくて、お互い対極に分かれているようで実は表裏一体だと思う。
表裏一体だからこそキッパリ分けてしまうのは違うんじゃないかな。
倫理的、道徳的な面からもキッパリ分けてしまうのはやっぱり好ましくないと思う。
さらに人間の行為について語る、というのは事後にされるのであってなんとでも言える。
当事者であっても、だ。その時の行為をしている時の心情は、その時の自分にしか分からないのだから。だからこそこうやって2つの分類に分けられるのは後付けでしかないのだ。
答えになってはいないとは思うが、こういうことにたどり着いた。
日常的な事象にも「問い」を
さて、今回はかなり哲学的な問題に取り組んだわけだが、この問題と向き合う中で得た思考法は是非とも活かさないと意味が無いのである。…特に日常的な事象とか。
この後先生から出された「体験・経験を通して成長出来る人とは?」という課題。
我々は
- 分析できる人
- それらをアウトプットできる人
- 分析した結果を行動に移せる
- 能動的に体験できる人
となった。
しかし
- そもそも体験・経験ってどこまでのことを言うの?
- そもそも成長ってなんなん?
と聞かれると…なんだか先程あげたものに疑問が浮かぶ。
体験って、例えばテレビを見ることもそのひとつじゃん。ゲームにしてもそう。これらを経て成長する。となると?となる。
成長にしても身体的な成長もあれば人間的な成長もある。効率が上がることも成長。今まで知らなかったことを知るのも成長。目に見える成長にその逆もある。
果たしてさっき挙げた考えは全ての体験、経験、そして成長に当てはまるのだろうか…。
浅はかだった。
なぜこのようなことになったのか。問いを立てれていなかったのである。
さっきまでは出来ていたはずなのに。体験とか成長といったかなり身近なワードに自分は今までフォーカス出来ていたのかな。
そういった「気づきのセンス」は自分はまだまだということに気づけた。
こういったセンスを磨くためにはやはり日常的な事象にも問いを適切に立てる練習をする必要があるのだなと思った。
またまとまっていないですが今回はこの辺にしときます…。
「体験・経験を通して成長出来る人とは?」という課題はまた日を改めて上げたいと思います…。